6月23日 慰霊の日 その1
平和記念公園〜魂魄の塔
6月23日、慰霊の日。

昼前から沖縄全戦没者慰霊祭に参加するため、糸満市摩文仁の平和祈念公園へ行ってきました。今回は、東京文京区から慰霊の日のために来てくださった花園晶道さんとご一緒しました。

平和記念公園までお馴染みの渋滞の網をくぐって到着すると、例年通りの強い日差しのなか沢山の方々が集まっていました。旧暦の糸満ハーレーが同日に行われ、まさにこの日から梅雨明けをして沖縄の夏が始まったところでした。ここで行われる一分間の黙祷では、様々な政治的な思惑を超えて、誰もがただ一人一人の亡くなった命のために祈りを捧げていたように感じます。

その後、場所を移動して魂魄の塔へ。その道すがら、それぞれの家族が、身内の慰霊の場所に集まっている姿が見られました。魂魄の塔でも、沢山の方々が塔に花を添えて祈りを捧げています。また、この近くでは県内の様々な問題を訴える集会が開かれていました。オスプレイ配備や、辺野古への基地移設、高江ヘリパッドなどなどリアルタイムな問題に関するものでした。

沖縄ではまだ戦争は完全に終わっていないと感じている人のどれほど多いことか私は知りました。沖縄の人たちは平和を訴えています。それはつまり、今続いているこの戦争の終結を訴えているのです。誰からも侵略されていないという状況があって平和があるという思いがあるのです。その思いが、なかなか県外には伝わらないもどかしさを今も感じながら尚、沖縄の人々は平和を訴え続けるでしょう。

つづく
更新日:07/10
定例坐禅会と手作りジーマミー豆腐
簡単に早く作れる ジーマミー豆腐の講習会
6月3日の坐禅会では、住職より放生会のお話がありました。

その後、中山さんの奥さんが手作りジーマミー豆腐の作り方を皆さんに教えて下さいました。以前、沖縄の伝統料理のお店を開いていたことがあるというプロの技です。実用的なやり方を研究して、普通ならば40分ほどかかるやり方を短縮して15分ほどで作れるようになっています。

落花生を水と一緒にミキサーにかけた後、その絞った汁を、いもくずとタピオカの粉末を溶かした水と一緒に混ぜます。あとは、これを火にかけて混ぜるだけです。

コツは落花生に対する水分の量と、火にかけて水分を飛ばす際の調節です。最終的に熱い鍋のなかで、チューインガムのように強い粘り気がでるまで力強く粘り強く混ぜます。時間的には短いのですが、体力勝負でした。

ジーマミーを鍋から冷やすための容器に移す際に、容器に薄く水を敷いておくとジーマミーが底にくっつかないそうです。移したあとは、水をいれて冷やします。急激に冷やすよりも時間をかけると均等に固まるそうです。

ダシはカツオダシ汁に醤油をみりんというシンプルなものです。

落花生は中の皮を剥かない方がより素材の味が濃厚になって美味しいと感じました。これは色合いも多少変わるので好みがあるでしょう。

今回参加できた皆さんはラッキーですね!
早速、長谷寺でもやってみたいと思います。

わざわざこのために来て頂いた中山さんの奥さんに感謝!

【ここをクリック】ジーマミー豆腐講習会の写真です
更新日:06/04
坐禅会 5月20日
ティック・ナット・ハンの『ブッダ』より
今回の坐禅会は、住職が不在のため副住職が行いました。

勉強会では、「般若心経」が「空」を説く経典であることをお話しました。

・「空」が「相互共存」と「無我」から導かれること。
・「無我」が、「無」や「何もない」という意味に誤解されやすいこと。
・「空」と「無常」の実践的な理解によって慈悲が生じること。

以上のことをお話する上で、最適であろうと思って引用したのがベトナムの僧侶ティック・ナット・ハン氏の『小説ブッダ―いにしえの道、白い雲』という本でした。ベトナムは禅宗であり、真言宗やチベット仏教のような密教ではありません。ですが、空の教えは広く大乗仏教に共通した教えです。

 江戸時代より以前の話ですが、お坊さんは各宗派を渡り歩いて勉強をしていました。その理由は、仏教の教えが根底でつながっているからです。特定の宗派にこだわりすぎず、本質を学ぶことが大切だと感じます。

以下、当日に引用した部分です。
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 シッダールタは微笑んで、青空にくっきりと刻まれたピッパラ樹の葉を見上げた。長い尾が風に揺れて、まるで誘うように前にうしろにはためいていた。その葉を深く見つめてみると、葉のなかに太陽や星の存在がはっきり見えた−−−太陽の光や熱がなければ、この一枚の葉はここに存在することはできない。「これがこのように在るのは、あれがあのように在るからだ。」その葉のなかに雲も見えた−−−雲がなければ雨は降らない。雨が降らなければ、木の葉はここに存在できない。大地、時間、空間、心−−−すべてがこの一枚の葉のなかに在ることを悟った。この一瞬に、全宇宙がこの葉のなかに在る。一枚の葉の存在は、まことにすばらしい奇蹟であった。

 木の葉はふつう春に芽生えると人は思うものだが、シッダールタは、この一枚の葉は、太陽の光、雲、木、そして自分自身のなかにすでに存在していたことを悟った。葉は一度も新たに芽生えたことがなく、自分もまた一度も生まれたことがない。葉と自分はただここに現れているだけなのだ。生まれたことがないからには死ぬこともない。この洞察により、生と死、出現と消滅の観念が消え、一枚の葉と自分自身の真実の顔が姿をあらわした。ひとつひとつの現象が、他のすべての現象を可能にしている。一のなかにすべてがあり、すべてが一のなかに包含されている。

 一枚の葉とこの身体はひとつだ。いずれも独立した不変の実体を持たない。どちらも宇宙の他のものと別れて個別に存在することはできない。シッダールタは、すべての現象が相互に依存するという本質を見て、万象の「空」を悟った−−−すべてのものには、わかたれて独立した実体はない。悟りへの鍵は「相互共存」と「無我」というふたつの真理のなかに在る。雲が流れ、半透明に透けるピッパラ樹の葉に白い背景を与えた。おそらく今夜、雲は寒気に出会って、雨に変わるだろう。雲はひとつの現れであり、雨は別の現れにすぎない。雲もまた生まれもしないし死にもしない。ゴータマは思った。雲がこれを理解したら、雲はきっと楽しそうに歌を歌いながら、雨となって、山や森や田んぼに降り注ぐだろう。

 身体(色)、感覚(受)、知覚(想)、心の形成物(行)、意識(識)の川を照らしながら、シッダールタはいま、無常と無我が、生命に不可欠の条件であることをはっきりと見た。無常と無我がなければ、何者も成長しえないし、発展もしない。もしも一粒の米が無常と無我の本質を持たなければ、稲に成長することができない。雲に無我と空がなければ、雲は雨に変わることができない。無常と空がなければ子どもはいつまでも大人になれない。
小説ブッダ―いにしえの道、白い雲 [単行本]
更新日:05/22
5/5 坐禅会にて かぎやで風
■5/5(日)の坐禅会

座禅が終わった後、勉強会では観音経の事釈と理釈について学びました。事釈とはお経の意味を書いてある文字どおりに読み解くこと。理釈とは、文字どおりではなく、一歩踏み込んで読み解くことです。

例としては、「火」という言葉が出てきたら、それを「煩悩の火」と読み解きます。つまり、心の問題としてとらえるのが基本的な理釈です。

■ゆんたくにて「かぎやで風」を練習

沖縄に精通している中山さんがかぎやで風を皆さんに教えてくれました。三線のベテラン、あさみさんが弾きました。扇子がひとつしかなかったので、他の人はおせんべい(!)を扇の代わりにしています。

かぎやで風(カジャディフウ)
沖縄本島で、祝宴の座開きとして踊られる祝儀舞踊。 歌意:「今日の喜びを何とたたえる事ができましょう。まるで蕾の花が朝露を受けて、ぱっと咲き開いた様な心持ちです」演出には数種あり、それによって演目名が異なる場合がある。本来は、老人芸であるので、長寿を寿ぎ国家安泰を願い、子孫繁栄を喜ぶ思想で終始する。振りも扇を用いのびのびと大らかに展開する。古典舞踊で唯一の翁芸であり、祝福芸である。 (琉球舞踊用語集より引用)

仏教自由帳:観音経4コマ(5)+事釈と理釈
更新日:05/13
花まつり 稚児行列の様子(映像)
稚児行列の動画をアップロードしました
更新日:04/28